コラム:英EU離脱協議、手切れ金より高くつく「障害」=田中理氏

コラム:英EU離脱協議、手切れ金より高くつく「障害」=田中理氏
本稿は、ロイター日本語ニュースサイトの外国為替フォーラムに掲載されたものです。写真は筆者提供。
田中理 第一生命経済研究所 主席エコノミスト
[東京 1日] - 難航が伝えられていた英国と欧州連合(EU)の離脱協議が前進するとの期待から、ポンド相場が上昇している。英国政府がEU離脱に伴って支払う清算金で歩み寄りの姿勢を示しており、最終合意が近いとの報道が好感されたためだ。
EU側の方針では、離脱清算金、EU市民の権利保護、北アイルランドの国境管理の3つの問題で「十分な進展がある」と判断した場合に限り、移行措置や離脱後の貿易関係など次の段階の協議に進むことができる。なかでも清算金を巡っては双方の意見の隔たりが大きく、第1段階の協議における最大の障害とされてきた。
報道によれば、英国側は清算金として500億ユーロ前後(約6兆7000億円)の支払いに応じる方針を示唆しているとされる。これはEU予算の分担金などEU側が要求する1000億ユーロの支払いから、農業補助金など英国がEUから受け取る金額を引いた差額だ。控除額の計算の仕方によって金額に幅があり、英国政府は最も少ない金額を国民に示したい意向だが、EU側の要求をほぼ全面的に受け入れた形だ。
メイ英首相は12月4日に欧州委員会のユンケル委員長やバルニエEU首席交渉官と会談を予定しており、ここで正式な提案を行う模様だ。英国を除くEU加盟国の政府が「十分な進展がある」と判断すれば、同月14―15日の欧州首脳会議の場で、移行期間や離脱後の貿易関係の協議を開始することが正式に宣言される。
原則2年の離脱協議は2019年3月末に協議期限を迎える。ただ、各国の議会承認に半年程度の時間を要するため、来年秋が事実上の協議期限とみられている。
また、英国の産業界からは停滞する離脱協議へのいら立ちの声が高まっている。来年の早い段階で移行措置の方針が定まらなければ、英国外への事業移転など代替プランを実行に移すと警告する企業も増えてきた。こうしたスケジュールに鑑みると、12月の首脳会議で第1段階の協議を終えなければ、時間切れのリスクが高まりかねない状況にある。
<頭痛の種は北アイルランドの国境管理問題>
清算金の話に注目が集まりがちだが、それ以上に解決が難しそうなのが北アイルランドの国境管理の問題だ。あまりにも合意が難しいため、恐らく今回の首脳会議では、英国政府がより明確に歩み寄りの姿勢を見せることで、最終的な結論を先送りする可能性が高い。
英国のEU離脱後、英国とEUの間では従来のような「ヒト・モノ」の移動の自由は認められなくなる。島国の英国では大半の国境線は海で隔てられており、自由な行き来が難しい。だが、英国の一部である北アイルランドとEU加盟国のアイルランドを隔てる約500キロメートルの国境線は陸続きのため、何らかの国境管理が必要となる。
1970―80年代の北アイルランドでは、英国から独立してアイルランドへの再統一を求めるナショナリストと、英国への残留を主張するユニオニストとの間の対立が深刻化し、武力闘争やテロが頻繁に発生した。1998年に和平合意が実現し、こうした衝突はほとんどなくなったが、物理的な国境の復活が両国関係に微妙な波風を立てることを警戒する声も聞かれる。
アイルランド政府はいかなる国境管理の復活にも反対する立場をとり、英国のEU離脱後も北アイルランドがEUの単一市場や関税同盟にとどまることや、アイルランドと北アイルランドの関連規制の統一化を主張している。
これに対して英国政府は、EU法の支配から逃れるため、単一市場や関税同盟から脱退する基本方針を固めている。北アイルランドだけをその例外とすることで、英国の一体性を損なう解決策には否定的だ。そのため、さまざまな技術活用を視野に限定的な形での国境管理を導入したいとしている。
こうした両国の立場は双方の不安定な政治情勢によって一段と複雑さを増している。アイルランドでは、バラッカー首相が率いる統一アイルランド党(フィナ・ゲール)の非多数派政権が、ライバル政党・共和党(フィアナ・フォイル)の閣外協力によって政権を維持している。その共和党が11月下旬、警察の内部告発者への対応が不適切だったとしてフィッツジェラルド副首相の不信任動議を提出。これは閣外協力の合意破棄に当たるため、協力解消による再選挙の可能性が浮上していた。
副首相の辞任で政権崩壊の危機はひとまず回避されたものの、両党間の信頼関係が損なわれ、近い将来に再選挙が行われるとの見方も多い。おまけに、アイルランド再統一を目指す野党のシン・フェイン党も、北アイルランド情勢を巡って政権にたびたび圧力を掛けている。
英国も6月の前倒し議会選で与党・保守党が過半数を失い、北アイルランドの地域政党である民主統一党(DUP)の閣外協力によって政権を維持している状況だ。DUPはアイルランド再統一に反対するユニオニストの代表政党で、北アイルランドのアイルランド接近につながる解決策に反対している。メイ政権がアイルランド政府の要求に屈する場合、閣外協力を打ち切ると警告しており、政権崩壊につながる恐れがある。
しかも、3月の北アイルランドの議会選後、親英・EU離脱派のDUPと親アイルランド・EU残留派のシン・フェイン党の間の連立協議が暗礁に乗り上げており、いまだに政権発足ができずにいる。北アイルランドの将来を左右する重大な決断を、政府不在のまま決定することは難しい。
<アイルランド拒否権発動の可能性は>
なお、12月の首脳会議で第1段階の協議に十分な進展があったかどうかの判断は、英国を除くEU加盟国の総意が必要となる。清算金で合意できたとしても、北アイルランドの国境管理を巡る協議の進展が不十分として、アイルランド政府が拒否権を発動する可能性も残る。
ただ、アイルランドは英国と最も経済的な関係が密接なEU加盟国であり、離脱協議を次の段階に進め、英国との自由貿易を維持することに重大な関心を持っている。また、英国とアイルランドを除くEU加盟国にとって、北アイルランドの国境管理は必ずしも優先課題ではない。アイルランドの拒否権発動には他のEU諸国の猛反発が予想される。
北アイルランドの国境管理の問題は、離脱後の英国とEUの貿易関係がどうなるかによって解決の方法が異なるため、現時点で最終的な解決策を見いだすことは難しい。だが、来年秋の事実上の協議期限に向けて、この問題の解決は避けて通ることができない。
要するに、協議が前進する可能性が高まったことで、何の合意もできずに離脱する「クリフエッジ」のリスクが遠のいたとの楽観論も聞かれるが、離脱通告から8カ月を経て、協議はようやく第1のハードルをクリアするめどが立った段階にすぎないのだ。
今回先送りが濃厚な北アイルランドの国境管理の問題以外にも、移行期間中のEU法の適用範囲をどうするのか、サービス分野での自由貿易をどう確保するかなど、いくつもの難しい課題が待ち構えている。強硬離脱派の間では、全面撤退を余儀なくされつつあるメイ政権の協議方針を批判する声もくすぶり続けている。離脱協議の行方を安心するのはまだ早い。
*田中理氏は第一生命経済研究所の主席エコノミスト。1997年慶應義塾大学卒。日本総合研究所、モルガン・スタンレー証券(現在はモルガン・スタンレーMUFG証券)などで日米欧のマクロ経済調査業務に従事。2009年11月より現職。欧米経済担当。
*本稿は、ロイター日本語ニュースサイトの外国為替フォーラムに掲載されたものです。(here
(編集:麻生祐司)
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