ブログ:続続・日本人と死の覚悟

森 佳子
[東京 14日 ロイター] - 「2025年問題」と呼ばれる壁に日本が突き当たるまであと7年半。2025年には、団塊の世代が全員75歳以上の後期高齢者となり、国民の3人に1人が65歳以上、5人に1人が75歳以上という、国家というコミュニティーにとって未踏の領域に達する。
高齢化に伴う医療費や介護費などの社会保障費の急増が懸念されている。
「国民の健康寿命が延伸する社会」の実現を掲げる厚生労働省は、男性で約9年、女性で13年弱とされる「要介護期間」(平均寿命と健康寿命の格差)を縮小すべく、病気や介護の予防と健康管理に向けた取り組みを推進している。
<弱っても死ねない>
健康寿命を延ばすことは確かに大事だが、良いことばかりでもない。京都市伏見区の社会福祉法人「同和園」付属診療所長で医師の中村仁一氏は「弱っても死ねない身体づくり」をすることによって、逆に、要介護期間も延び、生涯の医療費と介護費用が増えてしまう、と指摘する。
大事なのは、人生の最後に来る「健康寿命が尽きた後」の要介護状態をどう生きるかだと中村氏は語る。「無理に引き延ばしても費用がかかるだけで、決して本人の幸せにはつながらない。要介護期間の短縮こそ、われわれが向き合うべき問題だが、このことに対する働きかけは、全く見当たらない」
背景には、社会や制度の変化、医療の進歩に対する過信や、死の文化の喪失などがあるという。
昭和30年代までは、点滴注射や酸素吸入をされたり、無理やり口の中に食べ物を押し込まれたりすることもなく、自宅で好きなものを、無理せず食べられるだけ、という状況で、皆が穏やかに死んでいった。
死は日常の出来事であり、代々、文化として受け継がれていた。
ところが、医療保険制度が整備され、核家族化が進み、介護力が低下。老人医療の無料化によって、死期が近づくと病院へという流れとなり、人が自然に死んでいく時の様相がどんなものかさえ、分からなくなった。
未知ゆえに、死が恐ろしいものへと変貌した結果、人々はそれを「見ないよう、考えないようになってしまった」と中村氏は語る。さらに、医学の進歩が「死」すらも解決してくれるのではないかという過信も広がっていった。
<医療業界によるマインド・コントロール>
本来、病気やケガを治すのは、本人が生まれながらにして持っている自然治癒力だが、大半の日本人は、治してくれるのは、医者や薬だと思っている。
とはいえ、日進月歩とされる近代医学によって病人が減ったかといえば、現実はまるで逆で、高血圧の患者が4000万人以上、糖尿病は予備軍を入れて2000万人、骨粗しょう症は1400万人など、日本中が病人だらけになっている。
結局、進歩したとされる近代医療技術も、しょせん中途半端なハーフウェイ・テクノロジーと言わざるを得ない、と中村氏は語る。
医療業界にも責任がある。
「私たち医者はこれまで、まれな、かなり特異なケースを前面に押し出し、素人判断で様子を見ていて重篤になったらどうするのか、万一こじらせて手遅れになったらどうするのか、など業界を挙げて国民を脅し、思考停止状態にしてきた」と中村氏。
こうしたマインド・コントロールは、薄利多売の医療保険制度の上に成り立っている。つまり、1人でも多くの患者を診ないことには、経営も生活も成り立たない仕組みなのだ。さらに、今の高齢者はこのマインド・コントロールが効いている関係上、「欲が深く、よくならないのは、医者の腕が悪いからと考え、さらに大きな病院にかかり、専門医を探すようになる」と同氏は語る。
しかし、実際は、専門医は病名をつける専門家であって、必ずしもそれを治す専門家ではない。
また、近くに高度医療が可能な病院ができると安心だとされるが、医療には不確実性がつきものであり、最終的には賭けの要素がある。
「医療の恐ろしいところは、どんな状態でも助ければいい、一分一秒でも長く生かせばいい」という点だ、と中村氏は言う。そうなると、完治不能な高齢者が高度医療で一命を取りとめたとしても、まともな状態で生還する確率は低下し、高度な医療が重度の障害者を作りだすことになる。
「修繕に出す前よりひどい状態になっているにも関わらず、公然とカネを受け取って、引きとれと堂々と言える業界は、他にはない」と中村氏は言う。
<自力で食べられなくなったら寿命>
制度や社会が「死」を非日常に追いやり、死の文化も哲学も失ってしまった日本では、医療業界は自己保存本能に終始し、行政も本質的な解決策を避けている。
こうした現状で、多くの日本人を最後に待ち受けるのは「医療の虐待」と「介護の拷問」で、なかなか安らかには死なせてもらえない。
自然に安らかに死ぬには、医療・介護の現場と利用者の双方に意識改革が必要だ。
日本人は、食べないから死ぬと、どうしても思ってしまいがちだが、事実は逆だ。飲み食いが出来なくなれば、あるいは、飲み食いをしなくなれば、それは寿命が来たということ。これはあらゆる生き物に共通する自然な最期の姿で、人間も例外ではない。
しかし、現代日本の介護現場には「食べないから死ぬ」という強い思い込みがあり、どうしても、長い時間をかけて、強制的に食料や飲料を利用者の口に押し込んでしまう。
その結果、下痢をしたり、むくんだり、気道からの分泌物(痰)が増えて、1日に何回も痰を吸引するという、本人に苦痛をもたらす荒業をしなければならなくなる。
介護の現場で大事なことは、自分たちの思いを優先させるのではなく、この行為が本当に利用者のためになっているのか、もしかして負担をかけてはいないかと、言葉を発せられない利用者に対しても、その態度や表情から類推することだ。
人の最期を看取るというのは、一言で言えば、人が枯れるのを手伝うことであり、少なくとも枯れるのを邪魔しないこと。水やりは、枯れることを妨害する行為で、点滴注射などは論外だとの考えもある。
今こそ、国民一人ひとりが、真剣にわがこととして、生きること、死ぬことを考えなくてはならない。
これは医療の問題ではなく人生の問題で、医療は人生を豊かに幸せに、そして人間らしく死ぬために利用する1つの手段に過ぎない。ところが、医療は今、病気の管理を超えて人間管理にまで及び、人生を支配するに至っている。
利用者は、平素から医療のみならず、介護においても、限定的な利用を考え、意思表示をして、周囲とよく話し合うことが必要だ。
死を考えることは、「死に方」を考えることではなく、いのちが有限であることを視野の片隅において、それまでをどう生きるかを考えることだ。
「2025年問題を解決する要は、自力でものが食べられなくなったら寿命(が来た)との考えを、年寄りのあいだの合意にすること。そして、できれば穏やかに死んでみせて、決して死は恐ろしいものではないのだと、後輩たちに示すこと」だと中村氏は語る。

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