コラム:視界不良の英国離脱プロセス、3つの謎=吉田健一郎氏
6月24日、みずほ総合研究所・上席主任エコノミストの吉田健一郎氏は、英国に求められるのは「秩序立った離脱」だが、同国政府の意思決定プロセスの混乱が予想されることなどから、先行きは極めて不透明だと指摘。写真は、ロンドンの国会議事堂広場に立つウィンストン・チャーチル元首相の像。6月撮影(2016年 ロイター/Stefan Wermuth)
吉田健一郎 みずほ総合研究所 上席主任エコノミスト
[東京 24日] - 23日に英国で行われた欧州連合(EU)離脱の是非を問う国民投票は、離脱票が約52%と残留票の約48%を上回った。今後の離脱プロセスはどのように進むのか。みずほ総合研究所・欧米調査部の上席主任エコノミスト、吉田健一郎氏に、日本経済への影響と併せて、予想されるシナリオを聞いた。
同氏の見解は以下の通り。
<今後の離脱プロセスは>
英国に求められるのは「秩序立った離脱」だが、先行きは極めて不透明だ。視界不良の理由は主に3つある。第1に、英国のEUに対する離脱通告がいつ正式に行われるのかが分からない点だ。
EU脱退を定めたEU条約第50条では、すべての手続きは通告を受けて始まることになっている。だが、EU離脱派の中には、英国に対する不利益が減るようEU側と水面下で非公式交渉を進め、道筋がついたところで正式に通告すれば良いという意見が多い。
また、EU条約第50条の第1項には、「いずれの構成国も、その憲法上の要件に従って連合から脱退することを決めることができる」とあるが、成文憲法のない英国で、この項目をどうクリアするのかが不透明だ。
むろん、国民投票が示した意思は「離脱」だが、通告前に議会で採決する必要が出てくるのかもしれない。その場合、英下院は残留派のほうが多いため、波乱がないとも限らない。
第2の不透明性は、英国とEUの今後の交渉期間とその内容をめぐるものだ。脱退協定の項目は、脱退日はもとより、EU内で働く英国人(また英国内で働くEU加盟国民)の地位・権利問題から、既存の国際協定(EUが他国・他地域と結んでいる自由貿易協定など)での英国の取り扱いなど、多岐に渡る。
さらに、EU条約は、隣国との関係の規定を義務づけているため、並行して新協定の交渉が行われる必要がある。また、そもそも脱退協定は新協定を念頭に置いたものなので、切り離して議論することは難しい。
EU側も安易な妥協はしにくいだろう。2017年には、多くのEU加盟国で選挙が予定されている。3月にはオランダ総選挙、4―5月にはフランス大統領選と6月には同国で下院選挙、秋にはドイツで総選挙がある。EU懐疑派が勢いを増すような英国側のチェリーピック(つまみ食い)を容易に認めるとは思えない。脱退通告前の非公式会合も、EU側が受けてくれるかどうかは不明だ。
第3の不透明性は、上記2つとも関わるが、英国政府の今後の意思決定プロセスである。国民投票の意思としては「離脱」が選択されたが、様々なEU法の適用をどう停止し、EUとの新協定をどうするのか、英国内での議論が当然必要になる。その決定は、議会民主主義の下で、残留派が多い下院において行われることになる。
残留派議員は、離脱後も、人の自由な移動を含めたEU市場へのアクセス維持を極力求めるだろう。しかし、離脱派の勝因は、人の移動、特に移民問題が英国に与える悪影響を前面に押し出した点にある。国民投票結果と議会がどう折り合いをつけていくのかが今後の注目点だ。
もちろん、下院解散も選択肢かもしれないが、英国では2011年に下院議員の5年の任期が原則守られる(首相の解散権を大幅に制限する)「議会任期固定法」が成立し、任期途中の解散総選挙のハードルはかなり高くなっている(議会の自主解散は定数の3分の2以上の賛成が必要)。また、下院選挙では離脱派が勝利するとは限らないことを考えると、解散の可能性はあまり高くないのではないか。
ただ、不透明な状態が長引けば長引くほど、英国経済への悪影響は当然大きくなっていく。したがって、私の予想では、国民投票で離脱の意思が示された以上、やはりそう遠くない時点でEU側に通告し、脱退・新協定交渉に入るのではないかと見ている。
ちなみに、EU条約では、協定の合意がなければ、脱退通告から2年後にEU法の適用が停止されると定められているが、EU加盟全28カ国の合意があれば、交渉の延期は可能だ。協定がないままでの英国離脱は、EUにとっても経済的な打撃が大きいため、2年で話がまとまらずとも、いずれ何らかの妥協点が見出されるのではないかと考えている。
<英国とEUの新協定はどのような姿に>
想定されるシナリオは3つだ。1つはノルウェー型で、欧州経済領域(EEA)に加盟することによって、従来同様に単一市場への自由なアクセスを確保する道だ。残留派の一部は、この選択肢を好むかもしれない。
ただし、EEAは基本的にEU法と同じであり、主権回復を求める離脱派の要望には沿わない。何より、EUの政策決定に関与できないにもかかわらず、EU予算への拠出を求められる。そのため、英国民投票が離脱で決した以上、ノルウェー型は英国には選択しにくいだろう。
第2はスイス型で、これは欧州自由貿易協定(EFTA)に加盟したうえで、EUと各種個別協定を結ぶというものだ。端的に言えば、EU法のチェリーピックである。メリットはオーダーメイドな協定を目指せる点だが、デメリットは交渉長期化だ。スイスとEUの場合、合意までに約10年かかった。また、スイス型には金融サービスが含まれていないことから、英国がこの路線を目指そうとすると、さらに長い年月が必要となる可能性もある。
第3の道はカナダ型で、私はこれが英国にとって一番現実的な選択肢ではないかと見ている。カナダ型は、EUとの包括経済協定(CETA)を目指すもので、社会保障や移民といった政治的にデリケートな問題は含まれておらず、EU予算拠出も不要で、主権侵害の度合いが低い。英国側からすれば、一番ハードルが低い選択肢だろう。
いずれにせよ、ポイントは、EU単一市場へのアクセスというメリットと引き換えに、英国がEU法をどこまで受容するかということだ。メリットとデメリットは、いわずもがな、トレードオフの関係にある。
ただし、同じことは、EU側にも言える。英国との関係維持によって得られる政治経済的メリットと引き換えに、どこまでEU法に関する英国のわがままを許容するかと言うことだ。
<英国EU離脱の日本経済への影響は>
視界不良の状況が長引けば長引くほど、特に金融市場を通じた影響が懸念される。リスク回避で円高・株安がさらに進めば、企業収益が大きくダメージを受けるほか、消費や物価を下押しし、デフレ圧力を強める公算が大きいからだ。
ただし、ドル円相場について言えば、リーマンショック後のように、80円、70円まで円高ドル安が急激に進むシナリオは考えにくい。1つには、リーマンショックは「何も分からない」未知の危機だったが、今回のケースは不透明性が高いとはいえ、「何が分からない」かは分かっている。また、当時の危機を経て、国際的な危機対応体制の整備も進んでいる。
市場の混乱が収まるとすれば、ここから数週間が勝負だろう。前述した通り、英国の離脱交渉は長期化する公算が大きく、市場もこのことをずっと取引の材料にはできないのではないか。
ただ、こうなると問題なのは、円高方向にどんどん進んでいかずとも、今の水準で止まってしまう可能性が高いことだ。円安に戻る理由は現時点では見当たらない。この状態が持続すれば、日本の景気下押し圧力として懸念される。
むろん、経済的に一番大きな打撃を受けるのは震源地の英国であり、次に欧州だ。だが、足腰が弱まっている日本経済が市場混乱から受けるダメージは、米国や中国よりも大きくなる可能性はある。
(聞き手:麻生祐司)
*本稿は、吉田健一郎氏のインタビューをもとに、同氏の個人的見解に基づいて書かれています。
*吉田健一郎氏は、みずほ総合研究所・欧米調査部の上席主任エコノミスト。1996年一橋大学商学部卒業後、富士銀行(現みずほ銀行)入行。対顧客為替ディーラーを経て、04年より、みずほ総合研究所に出向。エコノミストとして08年―14年にロンドン駐在。ロンドン大学修士(経済学)。
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